晴明社の由緒



祭神 安倍晴明公
合祀 日光稲荷(祭神 豊受姫命)
    牛頭天王(祭神 須佐之男命)



由来 平安朝の頃、(天文博士)安倍晴明公が諸国遊歴の折、この地にこられ居を構え、陰陽術を伝えられました。ある日、神夢により井戸を掘り、霊水の湧出を見て、萬人を救済されましたので、諸国の人々の信を集めて、その徳を慕って遠近より集まる人続出したと伝えられています。後になって、旧居に晴明塚を築き、井戸を晴明井と命名して永く保存いたしました。寛政十二年九月三十日、材木町の人阿部理八は、その遺徳を偲び神祠を建立し、五輪石の一部を納められました。これが当社の起源であります。
その後、天保三年八月二十日、岡崎城下大火災の時、奇しくもこの社のみ残ったといわれています。天保六年社殿を再建し、明治十一年九月 日光稲荷、津島社と合祀しました。これより本町の崇敬者、いよいよ信仰厚く祭事を盛んにし、開運、商売繁昌、安産の守護神として晴明井の神水を授与される人が遠近より集まり、「岡崎の晴明様」として特殊信仰を世に知られるようになりました。
大東亜戦争期になり、日本各地空襲の悲運に見舞われた。昭和十九年七月、町内の人々の手により当社の御神体を菅生神社に御遷座いたしました。昭和二十四年、当地仮本殿を建立、御神体を再び御遷座申し上げました。
戦後十二年を経てなお仮本殿のままであるを憂い、町内の皆々様の御奉賛を迎え、昭和三十六年九月十日社殿を再建いたしました。



安倍晴明とは どんな人



☆ 知力


陰陽師が学ぶことは、この世の森羅万象全てである。天文観測、占術、歴学、風水、呪術、妖怪退治と、広く深い知識を持ち、優れた判断能力を持っていたようだ。また、政治的センスに優れた藤原道長の擁護派として従四位下の位まで出世した。(当時、陰陽師の身分は低く、従七位程度。)


☆ 体力


四十才を迎えた時に長寿の祝いをした時代に八十五才まで生存をし、昼は陰陽寮での仕事、一晩中の祈祷、深夜に悪霊退治と、亡くなる数年前まで陰陽師の激務をこなしていたことから、強靭な体力と生命力を持っていたと推測される。


☆ 人柄


陰陽道自体が一般人から見れば訳のわからない思想と術であったことから、一般人の考えも及ばない言動をとったと思われる。特に、人間同士の争いや闇に住む怨霊と常に冷静沈着に対峙し、表面上は涼しい顔をしていても、精神は鋼のように強靭であったと思われる。しかし、家庭内では妻の式神を恐れると一条戻橋の下に隠し、必要な時に式神を呼んで使役したことから、案外恐妻家だったかもしれない。